つらい時の記憶
突然ですが、みなさんはつらい時の記憶ってどう向き合っているんでしょうか。
つらすぎて思い出せなかったり、むしろ今でも思い出して悩んでしまうことがあったり。
わたしは両方ともあります。
その時にショックすぎたことを、どんなに思い出そうとしても思い出せないこと。
だいたい自分を困らせてしまうのは、過去のことを思い出してしまうことですね。後悔、悲観、自分の怠惰・未熟さ。「あの時こうすればよかった」「こうしたらもっとうまくできたんじゃないかな」とか。
そんなものの中には、今でもどうしたらいいのか分からないこともあります。たくさん。
でも、大抵そういう出来事にあった時、ショックで頭が回らなくなったらしませんか。
そういうことが結構あります。例えば怒っている人の話だと、話を聞いていないことやむしろ逆に逆ギレしたことも。逆ギレは声に出さないことのほうが多いんですけどね。
心の中で逆ギレしてたりすると、余計にあとあと余計に後悔するんですけどね笑
負のスパイラルですね。
次はこうしよう。
ってな感じで、「後悔」から「反省」が導き出せたらいいのですが、そんなにうまく頭は回らないようで...
分かりにくい書き方しちゃいましたm(_ _)m
昔のつらいことを少し思い出した今日の昼前。
遺産分割の判例変更
預貯金の遺産分割について2つの記事を。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6224600
遺産分割について、預貯金が対象となるニュースです。
これでどう変わったのかについて、こう書かれています。
"
亡くなった人の預貯金は「遺産分割」の対象となり、機械的な配分に縛られずに遺族同士が話し合いなどで取り分を決められるとの判断を、最高裁大法廷が19日の決定で示した。今回の判例変更で、相続はどう変わるのか。父ときょうだい2人のケースを想定してみた。
父は長男と同居し、2000万円の預金を残して病死した。遺言はなかった。長女は結婚して実家を離れたものの、もともと父から1000万円の資金援助(生前贈与)を受けていた。
長男は取り分について「自分は生前贈与を受けていないので、預金を全額相続する」と主張した。一方、長女は「自分にも預金を相続する権利がある」と譲らず、話し合いはまとまらなかった。
この場合、従来の判例に従えば、法定割合(それぞれ2分の1)に従って機械的に預金を1000万円ずつ分け合うことになる。他に遺産分割するものがない場合は生前贈与分は分け合う対象にならない。長男は預金1000万円しか得ることができないが、長女は生前贈与と預金の計2000万円を取得し、1000万円の差が生まれてしまう。
判例変更後は、預金が遺産分割の対象となるため、生前贈与を合わせた計3000万円分が遺産総額となる。取り分は法定の割合に従って1500万円ずつとなり、長男は預金1500万円、長女は生前贈与に加えて預金500万円を受け取ることが可能になる
"
つまり、
法律で決まった相続分を相続した場合には、相続人の間で不平等が生まれてしまうとき、それを考慮して財産分割の裁判ができるようになった
ということですね。
2つ目の東京新聞の記事によれば、従来の判例では、預貯金は法定相続分でしか分割できないとしていました。
その一方で、実務上では協議をする際に預貯金も分割する方法を取っています。
もっとも、協議が決裂したとき、従来の判例に従って、預貯金は法定相続分で分けられていたわけです。
相続法はなかなか勉強しない分野ですが、実生活では影響が大きい部分ですよね。
偏見と「おそれ」について
Togetteにこのような記事が載せられていました。
福島第1原発の放射能被害について、ひどくつらい経験をしたことが分かりました。
偏見。どうしてひとは、「自分勝手なものさし」で他人を見てしまうのでしょうか。
その原因は、共感する努力を怠っていることに限らないと思います。自分自身の勝手なものさしで判断してしまうのは、"自分勝手でないものさし"を持っていないから。つまり、自分勝手なものさしを使わざるを得ないから、ではないのかなと思います。相手の事情を知ったうえでその相手を拒絶するのは、偏見というより「いじわる」だと思います。
放射能とは、原子が崩壊を起こして他の物質になる性質というごく自然にある物事のことを言います。(Wikipediaを参照、簡略化しました)
でも目に見えないそれは、よく知らなければ漠然としたおそれ・恐怖心を引き起こします。
そして、人体に対する影響は未だに分からない部分が多いと思います。とくに高い放射線を当てられた場合ではなく、低い放射線を当てられ続けた場合に。
わたし自身も、福島県産の海産物だったり玄米をなんの躊躇いもなく食べられるかと言われたら、そうではないと思ってしまう。やはり、"よくわからないこわいもの"として忌避してしまっています。
心の弱さは絶対悪ではありません。それ「心の弱さ」と認識したうえで、どう行動するか。そこが重要なことだと思います。
半端もん
本日2通目の記事です。
またまた嫌になった自分の話。
ぼくは定期的に献血をしに行っています。
献血センターの前に掲げられたボード。ほとんどの確率でO型400mlの欄の「不足しています」という掲示。それはいつも助けを乞うようにぼくの目に飛び込んで来ます。
別にここに書いているからといって、"きり"がいい数字というわけでもなく、12回と表示されたカードを差し出して、13回目の血液採取を行っていただけでした。
以前、どうして献血にそんなにいくのか聞かれたことがあります。
その時は、血を抜かれる感覚がすきとかよく分からないことを言ってごまかした記憶があります。
献血が終わって帰路に着いた時に、そんなことを思い出していました。
どうしてだろう。純粋に、人を助けるのに役立つ「であろう」行為をしたことに、喜びのようなものを感じているせいでしょうか。
ぼくは、比較的ボランティア活動に積極的に取り組んで来たとすこしばかり思っています。
そして、その半分くらいは、ある友人に声をかけられて顔を出したものです。
その友人は、彼自身のことを「偽善者」と言いながら、昼夜を問わず継続的に色んなボランティアをしています。ひるは高校生の学習支援、よるは夜回り、環境保全や労働関係...。そんな他者に尽くしまくる彼を心の底から尊敬するわけです。
ぼくは、最近、少々ブラックなけがあるバイトがたてつづき、そう言った活動をおろそかにしてしまっています。あるいは自分の勉強を理由に。
はあとため息が出てしまいます。自分の環境から抜け出せなくて、人のためになることをほとんどできていないことに。
献血に行く理由は、献血センターに置いてあるパンを頂くためなのか。ジュースをもらえるからなのか。はたまたゆったりしたテレビの前に置いてある座り心地のいい椅子に座りたいのか。それだけなのか。
人を助けたいと思うこころ。それがあまりにも中途半端なのです。献血だけじゃなく他のボランティアをしている時にも、「ひとを心の底から助けたいと思って活動してる友人」との比較で劣等感みたいなものをなんども感じたものです。
そう、中途半端なのです。ぼくは。
大学院の受験
こんばんは。今日は最近さぼっていたので二通書きます笑
めんどくさがりな性格なので、その辺はご勘弁を。。
今日の記事は面白くないと思いますので、あらかじめ。。
わたしは今年、大学院の受験をしていました。
わたしの学部の大学院はある一定の院のレベルでくぎれる、偏差値のようなものが黙示的にあります。
わたしの行こうと思っている(というよりすでに合格をもらっていた)のは、だいたいその中間くらい。
先日わたしの行く院よりも後の試験の結果発表がありました。わたしの友人の何人かの合格発表がありました。そして、かなりレベルの高い院に合格する友人もいました。
ほんとに、すごいこと。わたしも嬉しかったし、おめでとうを伝えました。
わたしはひとつの院の試験しか受けず、そういったレベルの高いところは受けませんでした。ですが、自分よりレベルの高い院に行く友人がいる。
彼らは毎日毎日本当に努力をかさねねいたのは知っていました。でも、院のレベルというつまらないもので比較してしまって、悔しい自分がいる。
そんな感情をもってる自分に、器の小ささを感じた今日の帰り道...
Well come
はじめまして!
コータです。
勝手に宣言します。
今日からブログはじめます!!
そうですね、とりあえずの意気込みを。笑
些細なことでも、とりあえず書くぞー!
うん、続けることが大事。
最初だから何書こうかなとここ2日間くらい迷ってました。過去のこと、自分のやってること。
でも、迷ってばかりで何も形になりませんでした笑
なので、細かい説明は省略させていただきます、「おいおい」お話ししますよ笑
では。
ブログのいろはも分からぬままはじめます。
温かい目で見ていただけたら、そして、記事を読んでくださればこれほど嬉しいことはありません。
よろしくお願いしますっ
コータ