見たくないものを直視する
今日はとてもありがたいことが。
ぼくは、お互いの自分自身に関する深い話題を話せる友人と今日はお話ししていました。
話題は、自分の嫌いなこと、ぼくが彼女に振られた理由、その他。。
「それはなんでなの」
って、本当に興味のままに聞いてもらっていました。
しかし、たぶん一般に想像されるようななんでなのって聞き方とはまったく異なります。それってまったくもって同情に基づいたものではないものです。それは向こうがいけないんだよーみたいな話ではまったくありません。
それはコータが依存心を持ってたってだけだよね、
嫌われたくないってマイナスの感情に基づいているだけだよね、
みたいな感じで。いうならば尋問のペースです。
こういう話って、ここまで聞かれるとむしろ話すことが苦しいし、言われるのも相当応える。
(もちろん聞く方も相当な覚悟を持ってもらえないとこういう話はできない)
それでも、聞いてくれる人がいるから自分の感情って言葉になるんですよね。
独白しますと、自分の感情ってなかなか言葉にならないんです、ぼくは。その理由は、するのが怖いということもあるし、言葉に置き換えるのが面倒くさかったり、体面を気にしたりするから。むしろこれもぼくの別れてしまった理由のひとつではないかなと思ってます。
そして、自分の言葉をなかなか言葉にできない結果、物事を誤認してしまう。きちんと現実を捉えられない、受け入れられない。そういうことがぼくには多々あるんです。
今日はそのひとつ、たったひとつ、その友人に指摘してもらい、感動的な衝撃を受けました。その事実は明らかにすることはここではしません。その事実というのは、今まで自分が「こういう理由で別れてしまったんだな」と考えるときに、無意識のうちに避けていたこと。なぜならその事実を受け入れることが自分にとって嫌だったから。つらい、とも言い換えることができるかもしれません。今まで、その部分をくるくる回るように物事を考えていた。その部分だけないことにして、「美談」にしていました。
その事実を指摘されたとき、自分に杭を打ち込まれたような衝撃を受けました。まさに「杭を打ち込まれた」って感覚です。ドスン。その瞬間の壁が1枚打ち砕かれたような感覚は、心のその部分に触れれば血が手につくんじゃないかってくらい生々しく、かつ、こびりついていた壁や床の汚れや地面に張り付いている氷をバキッとはがした時のような心地よさが残っています。
というようなことを、今までのぼくなりにひとことでまとめるとするなら、
「今日は楽しかったです」
おわり
コータ